◆ 目次 ◆

1.小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)
2.朝鮮の鐘
3.安芸門徒
4.定林寺(じょうりんじ)から照蓮寺へ
5.本願寺直末論争
6.扁額「龍頭山・照蓮寺」
7.扁額「轉法輪藏」
8.安芸国大守淺野吉長
9.獅絃(しげん)和尚と澹寧居(たんねいきょ)・看心亭(かんしんてい)
10.小祇園と碧雲湖(へきうんこ)
11.みつ女とョ三兄弟
12.乕渓(こけい)和尚と菅茶山(かん・ちゃざん)
13.ョ山陽と平田玉蘊(ぎょくうん)
14.片雲和尚とョ春風
15.本願寺広島別院
16.中国の鐘
17.唐島基智三とハチス会
18.徳富蘇峰(とくとみそほう)と竹原
19.梵鐘(ぼんしょう)受難
20.平成時代の照蓮寺

 


1.小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)


 照蓮寺(しょうれんじ)は戦国時代、曹洞宗仏通寺(ぶっつうじ)派で定林寺(じょうりんじ)と呼んだ。鎌倉幕府から備後沼田(ぬた)荘の地頭を補任された小早川遠平(とおひら)の子孫は、やがて安芸都宇庄・竹原荘も治めるようになる。小早川家では此の寺を学問所としていて、代々子達の教育の場としたと伝える。定林寺が出てくる最も古い文書は、毛利家関係文書の「萩藩閥閲録(はぎはんばつ・えつろく)三」に「康安元[1361]年十一月九日・寄附 都宇庄(つうしょう)濱新堤(定林寺新開発)田地 事 右限永代、所奉寄進也」がある。寺はこれ以前からあったことが知れるが、何時から誰が開基かなどの記録はまだ見つかっていない。

朝鮮の鐘

 天文十三[1544]年、安芸国吉田の毛利元就は十三歳の第三子徳寿丸を、安芸竹原小早川家の継嗣とし竹原庄の木村城に入らせた。徳寿丸はのちに名を隆景(たかかげ)と改め、天文十九[1550]年には本家筋に当る隣接沼田小早川家に迎えられ、沼田と竹原両家をあわせ継ぐこととなった。小早川隆景成人してからは、知略・武勇を兼ね備えた武将として活躍し、早くから瀬戸内海の戦略的重要性を睨み、永禄十[1567]年、国内では珍しい、海に突き出た三原城を築いた。
 織田信長の石山合戦の終るまえ天正五[1577]年頃からは、瀬戸内海の制海権すべてを毛利一族が掌握し、内海海賊衆の雄備後国因島(いんのしま)村上・伊予国能島(のしま)村上ら水軍を勢力下に収めた。豊臣秀吉の天下統一後は徳川家康・前田利家・宇喜田秀家・毛利輝元と並んだ豊臣政権五大老の一人となる。
 慶長二[1597]年六月、備後三原で隆景没するの報に接した秀吉は、「この人、唯毛利家の蓋(がい)なるに止まらず日本の蓋にも余りある方なり」と涙を浮かべながら感にふけったという。






2.朝鮮の鐘


 照蓮寺には国重要文化財と指定された高麗(こうらい)時代の鐘がある。銘にある峻豊(しゅんぽう)四年は日本暦で應和三[ 963]年にあたる。高麗第四代の王光宗(こうしゅう)は昭大王と呼ばれ、二十六年間在位し其の間宋国建隆(けんりゅう)元年を高麗峻豊元年に替え、一時期峻豊年号を用いた時代であった。

 峻豊年代は僅か五年間という短年代であったため峻豊銘のある鐘は、半島に残っている二個を合わせ僅か三体という。日本国内にある朝鮮半島鐘で古いものは島根県安来市雲樹寺の八世紀前半とされる新羅(しんら)時代のもの、次いで福井県常宮神社に新羅時代[ 833年]のものがある。古さに於いて照蓮寺は六番目か七番目となる。“か”と云う表現は岡山市観音院の鐘は十世紀年代とされているが照蓮寺鐘[ 963年]の前後何れか判断が出来ないからである。明治四十三[1910]年、照蓮寺の鐘は国の重要文化財に指定された。

 朝鮮半島の歴史は、統一国家としては大きく新羅時代[381〜932]と高麗時代[ 918〜1145]とがある。「高麗鐘で古い」という表現は、日本の歴史を平安・室町時代に分けて、室町時代の鐘で古いといった時代表現に似て、朝鮮半島全体或いは日本全体の古さではないということを知っておく必要がある。

 書「梵鐘をたずねて」によれば、日本国内にある朝鮮半島鐘の所在の古いもの(破損していないのもの)は次のようであった。

 島根県雲樹寺    8世紀前半年
 福井県常宮神社   833年
 島根県光明寺    9世紀年
 大分県宇佐神宮   904年
 山口県住吉神社   10世紀前半年
 広島県照蓮寺    963年
 岡山市観音院    10世紀年

 豊臣秀吉は嘗て日本統一後明(みん)国を征服せんとして、朝鮮に協力依頼したが拒否に遇い、文禄元[1592]年と慶長元[1596]年の二度朝鮮に出兵する。特に小早川隆景は、文禄二[1593]年明国の李如松(りじょしょう)の大軍を破る武功を挙げた。奪った鐘を戦場では軍器として使用、帰国の時持ち帰ったと伝える。後世照蓮寺七世の恵應(えおう・号を慈雲)は
「法鐘は隆景朝鮮發越(はつえつ)の頃、古彌縣西院の鳴鐘を奪いて軍器と為し、帰りて 来所、定林に寄附也、惜しい哉、銘文間断し義分消裁、然りと雖ども霜気横天、商聲秋 に報い、驚回塵夢、沙界のみょう(玄扁に少)音に結縁するは、是般若の標識也」
 と云う。この朝鮮鐘は奪ったのでなく、貿易品ではないかとする説がある。それの根拠とするところは、隆景が奉納したという原文資料が、寺からも小早川家文書からも発見されていないことによる。しかし貿易品であるとする資料もまた発見されていない。この謎は何時解明されるのであろうか。またこの鐘の銘がいかに読みづらいものであるか、多くの学者・歴史家が挑戦しているがまだ定説となっては居ない。

 竹原市史巻三に「按ズルニ此ノ高麗鐘ハ備後三原善教寺ヨリ再ビ此寺(照蓮寺)ニ入ル也」とある謎を解かんと善教寺を訪ねたが全く手懸かりはなかった。一説に三原大善寺からではないかとの云い伝えもあったが、結果はいづれも幻の伝承であった。照蓮寺文書に「慶長[1596〜]の初め福島正則本州を知し、堂宇を廢し領田・尊像・法器を収め皆倶(とも)に散ぜる末寺也。今猶存するは、高麗鐘一をかくる耳(のみ)」とあれば鐘はずっと此処にあったのではなかろうか。定林寺は「文禄 [1592年〜]之頃寺堂尽ク破却シ住僧頼ル所無シ也」と、荒れ果てゝいたことを伝える。定林寺が曹洞宗から浄土真宗に転宗した頃、本尊は同じ下市村に在る真言宗長生寺に移されたが、昭和五[1930]年長生寺観音堂が火災に遇い、伝承されていた仏像はこの時焼亡した。

 長生寺は照蓮寺の南約五百米にあり、伊予国太守であった河野道直を弔わんと、天正十六[1588]年小早川隆景が此の寺を建て寺領二百石を附した。長生寺には竹原の歴史を刻む多くの墓がある。

 

 




3.安芸門徒


 備後国山南(さんな)村の里に元応二[1320]年、光照寺という浄土真宗の寺が建てられた。初代の明光上人は弘安九[1286]年六月相模国に生まれ、浄土真宗宗祖親鸞の門弟真仏の孫弟子にあたる武蔵国了海の徒になり、初め鎌倉の最宝寺を中心に活動したと云う。中国地方への浄土真宗布教を目指し、備後鞆の浦に上陸後山南村に光照寺を建て、浄土真宗が中国地方に広がる基を築いた。光照寺は備後・安芸地方で最も古い真宗寺院で、その後門弟たちの活発な真宗布教は、備後・安芸に止まらず遠く出雲・石見・長門国へと驚く勢いで広がっていった。新しい寺の建立のみならず明応五[1496]年ころからは、法華宗・禅宗・臨済宗・天台宗・時宗などを捲き込んで浄土真宗へ転宗する寺院は増えた。

 本願寺八世蓮如時代の三十六年間に、安芸国内の開基寺院は三十二ヶ寺であるのに対し、転宗寺院は三十八ヶ寺にのぼっている。また石山本願寺時代の五十年間をみると、開基六十一ヶ寺に対して転宗八十七ヶ寺と転宗寺院の多いのが目につく。かくして光照寺は備後・安芸・石見・出雲・長門地方の浄土真宗別院的性格を持ち大いに勢威を揮い、最も盛んであった頃光照寺に所属する与力寺・直末寺は三百六十一ケ寺にも及んだと云う。

 転宗したこの地方安芸国内の寺院は、多くが禅・真言・天台であったと云う。竹原市内では、吉名町妙専寺は永正七[1510]年真言宗から、東野町長善寺は永正十一[1514]年に天台宗から、下野町淨念寺は天文五[1536]年禅宗から、下野町寳泉寺は元亀二[1571]年禅宗から、忠海町明泉寺は天正年[1573〜]中(寛永十五[1638]年とするものもある)真言宗から、新庄町金剛寺は元和二[1616]年真言宗から、新庄町善明寺は寛永元[1624]年(慶長年[1596〜]間とするものもある)不詳の宗派から、田万里町西立寺は寛永十七[1640]年真言宗から、仁賀町延命寺は寛文の頃[1661〜1673]真言宗から、それぞれ浄土真宗に改めていると伝えられる。


 

 




4.定林寺(じょうりんじ)から照蓮寺へ


 慶長年[1596〜]の頃、安芸下市村には多くの浄土真宗信徒が居たけれども、真宗寺が無く、領田を没収され荒れていた定林寺を真宗寺とするため、慶長八[1603]年春三月広島藩主福島正則の代、播磨国から僧浄喜(じょうき)を迎えた。この頃の定林寺には僧虎雲(こうん)が居たというが小早川家が与えた采地三百石は正則によって没収され益々衰頽していたと云う。正則が領主となるまで小早川家から賜わっていた三百石の領田がそのまゝ引継ぎされていたのであれば、そんなに荒れる筈もなかろうにと思えるところである。定林寺の住僧となった浄喜は、代官である坂井信濃に、堂宇の再建を願い出た。寺は照蓮寺と号し、「其の功半ばにして浄喜、宗味(しゅうみ)に譲り播州に退く」が、何故堂宇再建を放棄したのかこのあたりも詳らかでない。福島正則の代「芸備の土民虐政(ぎゃくせい)に苦しむ」とした伝承もあるので再建が容易でなかったということか、或いはもう後を任せても大丈夫と見てのことか。以後歴代僧は浄喜を初代とする。浄喜は播磨国姫路の生まれで優れた僧であったと伝わる。坂井信濃は広島福島藩の検地奉行を勤め、慶長二十[1615]年頃三千二百八十一石であった。
                                      照蓮寺鐘楼門

 福島正則、関ヶ原の役では功により慶長五[1600]年十一月芸備両国四十二萬六千五百石に封ぜられる。のち幕府に無断で広島城を改築したとの理由から、元和五[1619]年六月一旦は津軽に移される。更に使者に対抗したとの理由から子備後守正勝と共に信濃に流され寛永元[1624]年六十四歳で没した。芸備にあること僅か二十年の悲運の將、なお正則は備後三原城に於いても大いに増築せんとする計画があって城外海中に多くの捨石をしていたと云う。

 この頃安芸国賀茂郡白市村萱荘(かやしょう)という処の養國寺に玄智という僧が居た。玄智の子に兄を圓淨、弟を覺正という二人の男子が居て、兄圓淨はそのうち高屋村養國寺を引き継ぎ、弟覺正は石見国へ行く。やがて養國寺の兄圓淨から下市村門徒衆へ、弟覺正を呼び戻し看坊にされたいという話があった。石見国へ出ていた覺正は呼び戻され照蓮寺住職となり名を改め二代宗味となった。

 元和五[1615]年八月四日、広島淺野初代藩主長晟(ながあきら)は家臣を率い和歌山を出発。広島着船は八日、直ちに上陸、広島城に晴の入城をした。

 宗味は元和四[1618]年五月十日本山に上る。准如大僧正に謁し木佛と札二品を受け本山の直末寺龍頭山照蓮寺定林院を受けまた鐘楼を修造した。この本山直末寺の関係は後々照蓮寺を揺るがす問題に発展する。

 宗味には三人の男子が有り、長兄を覺惠といい次弟を宗具、三男を正助という。宗味が没した時、子供達はまだ幼かったため寺の勤めを果たすことを得ず、賀茂郡高屋村から正順(せいじゅん)という僧を呼び寄せ第三代とした。兄の覺惠(かくえ)はのち成人してやがて照蓮寺四代住職に、弟の宗具(しゅうぐ)は京・江戸に遊学の後これも又照蓮寺に帰り五代宗具となる。

 三代正順の没後、豊田郡入野村長照寺に了清(りょうせい)という僧がいた。この了清は備後国山南村光照寺下の僧で、照蓮寺に住職がいないので看坊にと頼んでいたけれども、間もなく代えて四代を覺惠とした。了清は在職期間が短かったことや記録・遺蹟類がないことから、照蓮寺の歴代僧名から除かれている。長照寺は豊田郡入野村寺沖、真宗近江国本行寺の末、光渓山と号し、天文三[1534]年三月慈雲(じうん)が開基した。





5.本願寺直末論争


  寛文五[1665]年の「光福寺に照蓮寺具申書写し」という長文の書がある。この「写し」の全体を通しての意は、光福寺と照蓮寺との間の寺系列である本末関係縺れであった。光福寺側の申立によると、「宗具は光福寺出身僧であるから、照蓮寺の本末関係文書には光福寺下とする様」申し入れている。これに対し照蓮寺の言い分では「寛永二[1625]年、正順の代、十二代准如上人から竹原惣道場の格と親鸞・七高祖・聖徳太子像、寺号龍頭山照蓮寺の書き物をを受けている。今の宗具も本山へ上り、絹袈裟・官位を許されている。これは看坊に付いたのではなく寺に許されたものであるから、照蓮寺は光福寺下ではなく本願寺の直寺(じきでら)である。師匠寺であるから申し上げ難いこととは申せ、今更に光福寺下と云われても門徒檀那衆も腹立ちである。光福寺におかれても本願寺へ伺を立てて見られたい」と云うものであった。

 転宗以後本願寺との間に交わす願状・許状には、必ず自寺名の上に系列「□□寺下」が付された。徳川幕府は明治迄の永い間この本寺と末寺との序列を守るよう「諸宗寺院法度」に定めていたから、備後光照寺や安芸佛護寺のように門徒寺・末寺を多く抱えた寺は本山別院的な役割を果たして栄えた。

 寛文五[1665]年十月には突如として広島淺野藩公儀からも、照蓮寺が本願寺直寺になったのは何時か、由来を急ぎ差し出せとの書状が来る。照蓮寺にとっての大難題であった。五代宗具は直ちに本願寺へ上る。

 延宝二[1674]年八月には
「御本寺御役人方ヨリ両御郡代弓削喜三郎殿、西尾平衛門殿、此御両人エ竹原照蓮寺儀、 御本寺直参紛れ無キノ御連状ヲ申し請け相イ届けル、…本寺、七人ノ御役人方ヨリ照蓮 寺門徒中エ案堵ノ御連状申請けル」
とあって、延宝二[1674]年八月十六日、本山寂如上人からの書状で直参であると確認の書状が届いた。
「六十年来ノ曇雲(どんうん)忽ニ御晴レ候コト、實ニ御宗旨尊源ノ御燈故ゾト感涙ヲ流 し奉る也」

と伝える。以来宗具は広島藩郡代官替えには必ず照蓮寺の本末由来を聞きおかれるよう口上書を届けた。亦京都へも本末出入について度々登り、本願寺役人衆へ常に文を上したと云う。照蓮寺では本願寺直寺であると思っていても、関係の寺は自寺の系列下であるとの思いがあり、寺相互の言葉・態度にそれが現れ、永い間もやもや・不満がたれこめていた。五代宗具が照蓮寺の本願寺直末関係を明らかにするべく如何に苦心して来たかを偲ばすものであった。明治になってからは寺院法度も廃止され、全ての寺が本山の直寺となっている。

照蓮寺に関わりの深い文化七[1824]年頃の浄土真宗寺院系列は次のようであった。
御本廟御直参─┬─照蓮寺(賀茂郡竹原)
       ├─本行寺(近江国 )─┬─長照寺(豊田郡入野)
       │           └─光照寺(備後国山南)
          └─興正寺(京都山科)───佛護寺(広島寺町)──┐
 ┌──────────────────────────────┘
 └光福寺(広島材木町)──西品寺(賀茂郡中島)──養国寺(賀茂郡白市)

 光福寺は嶽扇山と号し広島寺町にある。初め安芸賀茂郡志和堀村に在って禅宗(一説に真言宗)であったと云う。開基・縁起・改宗の事歴は詳らかでないが開基は休園か。のち志和堀村から高田郡西原村に移り、次いで広島二代藩主淺野光晟(みつあきら)の寛永十二[1635]年広島寺町に移転し佛護寺十二坊中の一つとなる。初め山号を無量山と唱えていたが、正徳[1711〜]年中旧地志和村扇山の名に因み嶽扇山と改める。




 


6.扁額「龍頭山・照蓮寺」


 七代恵舟(えしゅう)は恵周としたものもあるが豊田郡川尻村の光明寺から来た。恵舟の父は教了。童名を辰之助、元禄五[1692]年九月照蓮寺の住職となる。照蓮寺へ一切経を納経せんとの志を立てたのは元禄十六[1703]、門徒に広く浄財を募り終に寳永二[1705]年、一切経六千九百餘巻を納めることが出来た。恵舟はこの年[1705]権大僧都法印となる。

 光明寺は浄土真宗本願寺派、安芸豊田郡川尻村久俊にあり、郡内第一の大坊で精香山と号す。元は禅宗で安芸郡蒲刈(かまがり)島にあって、西光寺と稱していたが僧正光が明応五[1496]年改宗して真宗となり、本山より寺号光明寺を受ける。八十年を経た後、天正[1573〜]年中に至り川尻村に移転する。

 「龍頭山・照蓮寺の二横扁、乃ち曼珠院良應法親王の筆也」との記録がある。その経緯ば次の如くであった。                          扁額「照蓮寺」

 ある時、京都愛宕(あたご)山の威徳院僧正伯が竹原照蓮寺の壇徒澤平吉の宅に一泊した。平吉は日ごろ照蓮寺に扁額(へんがく)の無いことを残念に思い、偶々この事を師に語る。正伯師曰く「威徳院の院主は、有名寺院などの扁額を残している曼珠法親王とは親しい間であり、畫・書などの宝物を戴いている、君の願いを叶えてあげたいものだ」と云う。平吉大いに喜びやがて威徳院に詣でる。威徳院僧正伯は懇ろに手紙を書き、哀永親王の額字を得、遠く贈ってきた。時に元禄十三年[1700])秋八月であった。この由来を後世に伝えるため本願寺能化桃渓(のうけ・とうけい)師が「龍頭山」「照蓮寺」額背にこの由来を書した。






7.扁額「轉法輪藏」


 八代恵應(えおう)は讃岐国高松真行寺の住職了圓の二男に生まれ、童名を龜之助と云う。先祖は姓を藤原、氏を真鍋、昔平家に従い一の谷合戦では武蔵国の勇者河原兄弟の首を挙げ勇名を馳せたという。のち瀬戸内海にある真鍋島に住み武家として世代を経たが盛衰があった。嘗て正徳四[1714]年の秋、恵應は偶々旅の途中下市村に来て照蓮寺七代惠舟法印に法の施しを受け、翌五年照蓮寺に入ることとなり八代恵應となり号を慈雲(じうん)と称した。

 享保二[1717]年十一月には経堂を建立し本山能化二代知空筆の扁額「轉法輪藏」を掲げる。経堂には「浄土和讃随聞書」・「教行信證御自釋」等の経典に留まらず、

「詩 類語     貞享第五[1688]戊辰正月二日」
「新板校正古文眞寶 元禄三[1690]庚午年九月吉日」
「詩法掌韻大成   元禄六[1693]癸酉年仲春吉旦」
「徒然草意綱全   元禄九[1696]丙子年冬十一月七日」
「頭書童蒙須知   元禄拾六[1703]年癸未正月吉日」
「蘇文忠公詩集擇粹(発刊年月不詳)」
「詩學類語    (発刊年月不詳)」

など現在も七代恵舟が納めた二千冊近い経典と併せ古法帖が納められている。

 後に多くの詩を残した照蓮寺の僧獅絃・片雲・乕渓(しげん・へんうん・こけい)やョ山陽の父春水・叔父春風らョ家一門が勉学に励んだのはこの経典や古帖であろう。「頭書蒙求 承應三[1654]甲午歳仲春吉辰刊行」等には彼等が繰り返し勉学したと思われる朱加筆の註が随所に見受けられる。

 享保十七[1732]年、安芸地方は大凶作であった。この飢饉は瀬戸内海沿岸部が中心で、前の年冬から気候不順、この年春は長雨、夏も冷雨、害虫のうんか・めいちゅう・いなごが大発生した。米などの収穫は無く全国では二百数十万人が飢え、一万二千余人が餓死したという。
「享保十七凶[1732]年町内並びに(下市村)大石の難渋者へ粥を焚き、餓を救い候人別左  へ書出し申候、難渋者人数は千四百六拾五人・竈数四百二十六軒」
に達し、十六軒の商人達が炊き出し、西方寺・長建寺・照蓮寺の三寺院も町内を托鉢して廻り「飢人へ粥を焚き施し申し候」と記録する。




 


8.安芸国大守淺野吉長


 昭和五十三[1978]年三月照蓮寺本堂屋根の葺替え工事中、古い瓦を降ろし屋根裏の板をはがしたところ本堂棟札が見つかった。棟札には裏面には春頼・虚白名による「本堂上梁記」が記されている。

表には
 「本堂再建棟札 従元文二[1737]年丁己季三月廿八日始建同十月十七日就之終矣 当寺第 七世現住律師恵応」と墨書、以下「当国大守安芸小将吉長公」を筆頭に、
「三家老浅野甲斐・浅野越前・上田主水」「中老浅野内膳・浅野外記」、年寄岡本大蔵ほか四人、郡代清水三郎兵衛ほか一人、代官八木治兵衛はか二人の名前が連なる。

地元竹原関係では
 「当所役人年寄米屋半平・同田坂屋源治郎・庄屋角屋正三郎・組頭三原屋角右衛門・同三 原屋忠左衛門」
「普請中肝煎角屋九右衛門・銭屋孫三郎」「普請中惣支配阿波屋惣兵衛」のほか
「普請見繕堺屋助七・広島屋半治郎ら六人、同肝煎山代屋源蔵ら十人、同世話種屋道淳・ 増田屋五兵衛ら」十八人の名前が記されている。

 頭梁は安芸郡呉村の中塩太郎助、脇大工同中塩伝三郎、下市村渡橋文右衛門、呉村中塩幸助と記されており、大工は呉村六人、下市村六人、三原七人、吉名一人、入野一人、西野村一人、の計二十二人、下市村大工の名前は六兵衛・喜三郎・善左衛門・市兵衛・十右衛門・利右衛門とある。木挽は呉村平三郎ら六人。屋根瓦師は熊沢六郎右衛門(三原)。呉市に当時、寺大工という高級技術を持った職人集団があったことがわかる。この棟札は平成の今「竹原市歴史民俗資料館」に展示されている。

 寺の伝えによれば、八代恵応(号を慈雲)は修行の旅に出て鎌倉に行き建長寺の副管長にまで出世した。村役人らが竹原照蓮寺へ帰るように要請したところ、寺が再建出来るならと承諾したという。

 元文四[1739]年五月には門徒衆に浄財を募り梵鐘を鑄た。恵應のころ本堂回廊欄干も整えたことも記録に残る。欄干の擬宝珠には寛保二[1742]年・京堀川施主米屋喜三郎の名を刻んであった。照蓮寺では再建を果たした七代慈雲を当山中興の人としてその功績を称える。鐘は永く門徒だけに止まらず下市村の人たちに心の安らぎを伝えた。鐘には銘があり後で述べる。




 


9.獅絃(しげん)和尚と澹寧居(たんねいきょ)・看心亭(かんしんてい)


 本堂と庫裡と裏山に囲まれた内庭を小祇園(しょうぎえん)と呼ぶ。九代住職獅絃は庫裏の東南偶端に一部屋を建て澹寧居と云いさらに庭園を眺めるように離れ座敷も建て看心亭と名付ける。亭は何れも自らの隠居所として詩作などに耽ったところ。竹原を訪れた多くの文人は屡々此処に集まり、詩・書・酒を交歓し小祇園・澹寧居・看心亭を詠い込んだ沢山の詩を残す。

ョ春風の詩、
 過澹寧居寄片雲師  澹寧居に過ぎり 片雲師に寄す
 故山歸去懶於雲  故山 歸去して雲に懶(ものう)く
 出岫遅遅秋日?(日扁に熏) 岫(みね)を出で 遅遅として秋日たそがれる
 満眼青苔紅葉砕  満眼の青苔 紅葉 砕き
 堪知昨夜鹿成群  知るに堪う 昨夜の鹿 群を成すを
詩中の片雲師については後で述べる。

 広島ョ春水は安芸竹原に生まれ、長じては広島淺野藩の儒学者となる。彼は幼いとき照蓮寺で勉強した。春水の父亨翁(こうおう)は照蓮寺九代獅絃と親密の間柄であったので、長男春水が読書習字に熱心であったのをみて何とか勉強させたいと、彼を伴い獅絃和尚を訪い懇ろに乞うた。
「僧獅絃、竹原照蓮寺の主なり。祖父亨翁、君に先君の書を教えんと欲するも法帖の獲る  所無し。此の兒は読書と習字とを好めり、貴師の森寶書中恰好の法帖や漢籍をば、豚兒(とんじ)彌太郎に借覧することを許されよ」
と頼めば、獅絃は快諾、何時にても来れとのことであった。彌太郎とは春水の幼名。当時は買い求めんとしても書物がなく、春水は毎日照蓮寺に登り、寺が秘蔵とする法帖を借りては、その中から一字一字鈎字の如く写しとり、毎日深更まで勉強に耽っていたと云う。春水は広島淺野藩儒者となった後も帰省するや必ず獅絃を照蓮寺に訪ね嘗ての日の恩を感謝した。

 ョ春水の弟春風は照蓮寺の近くに春風館を経営し、この照蓮寺には春水にまして更に関係が深い。宝暦三[1753]年竹原に生まれ、兄春水・弟杏坪がみな広島藩に重用せられ、藩学教授や備後の郡官として故郷竹原の外で活躍したのに較べ独りその郷土に踏み留まってョ家の墓を守った。

 明和三[1766]年十四歳、始めて大坂に遊学したとき、聚樂町の医塾に修業の年月を重ねるかたはら、大阪江戸堀の青山社に、兄春水とともに起居して、儒学の素養も積んだ。竹原へ帰郷して後の彼は、医者を開業する傍ら塩田経営、さらに儒者としての抱負から、自亭春風館で郷土の文化人を育てる。寛政五[1793]年には郷学所の竹原書院を創立、書院の主教としてその手腕を発揮した。書院の名は二百余年を経た今、市立竹原書院図書館としてその名は継承されていて郷土文化の向上に貢献している。文政八[1825]年七十三歳で没したが、「春風館詩鈔」に約二百八十首の詩を残す。また竹原ョ一族の墓は照蓮寺にあって、竹原の歴史研究する文化人は多くがョ家の墓に詣でる。なお「らい」は「頼」としたのを多く見かけるが「ョ」と書く。

 照蓮寺九代の住職となった恵明(えみょう)は八代慈雲の長男、享保十四[1729]年に生まれて字を達元又は義達、号を獅絃又は大洞とも云った。幼児京都宏山寺の僧樸(そうぼく)及び播磨国眞浄寺の僧智暹(ちせん)に学び仏道を極めた。若くして照蓮寺に入って住持となるや、米銭の勘定を問わず寺務のかたわら郷党の教育にあたり人々の尊敬が篤かった。寺務勤行に怠りなく帰依者日に多く、経典の書写を好む。寺庭一面に草花を植えて楽しむ風流人でもあったと伝える。特に詩文にすぐれており、彼の豊かな詩才を愛する人々が、照蓮寺に多く集まり交遊もひろかった。

 智暹は当時真宗の僧侶間では屈指の学僧であったが、西本願寺の学林派の人たちとはとかく意見が合わず、遂に明和四[1767]年彼は京都に呼ばれて本願寺の役僧たちの糾問をうけたのち、有罪の宣告をうけて幽閉され、翌年病死した。

 本堂前の石灯籠、右は宝暦七[1757]年寄進、左は安永五[1776]年寄進で何故か二十年近い開きがある。本堂再建の大悲願の後、これらが一つ一つ整備されていったということであろうか。明和三[1766]年には樓門を建て、先に受けていた曼珠院良應法親王筆の扁額「龍頭山」を掲げる。楼門の施主は味呑屋妙智であった。

 獅絃は詩人としても優れ詩集「恵明集」一巻を残す。彼の交遊範囲は広く、殊にョ一家との親交厚く、竹原の春風・広島の春水・同杏坪の三兄弟、更に久太郎(のち号を山陽)、権次郎(のち号を景譲)などを伴って、しばしば竹原近郊の景勝に遊んでいることが詩集にみえる。




 


10.小祇園と碧雲湖(へきうんこ)
 

 照蓮寺の本堂と書院に囲まれるように庭があり小祇園と云う。真中に池があり、池を巡る岸に石を組み、池の中央に島を配して石橋で渡る。島に屹立する石、借景の山の配置は見事な纏まりを見せる。昭和四十二[1967]年には芸南地方にとって未曾有の豪雨があった。     庭園「小祇園」

 気象庁は「昭和四十二年七月豪雨」と命名し、竹原では午後二時から二時間で六十三.六粍を記録、八日夕刻から九日夕刻までに二百二十二粍を記録、九人の犠牲者が出た。小祇園と稱する照蓮寺の名園は裏山崩壊とともに埋没したが、庭園は懸命に復旧され昔の姿に還った。昭和四十三年、文化財としての庭園調査のため工学博士森蘊や調査員がこの小祇園を訪れた。作庭は桃山時代若しくは江戸時代初期を下るまいとの診断もあって、県指定の名勝として永く保存すべしとの話もあったが未だ実現していない。
 照蓮寺には獅絃・乕渓、代を継いで片雲という当時安芸国に於いて著名な詩人三人がいて、竹原ではこの僧らを中心に多くの文化人が集まり詩歌・書画・酒飲の華を咲かせている。

 宝暦十二[1762]年夏五月、十二人の詩人は照蓮寺に集まり詩会を催す。彼等は「龍山小祇園泉石十二勝」と題、庭の池を碧雲湖と渾名し「灣は鐵蕉嶺の西南十有五里に在り周廻百三十里、一歩を以って十里と為す」と優雅に詩を詠んだ。
この時の詩人は、寰海(かんかい)・獅絃・乕渓らの十二人、詩を詠んだ後日、一枚の板に十二の詩を刻み碧雲湖を望む庫裏書院の庇に掲げた。文字は佛通寺の僧寰海の筆であった。

小祇園碧雲湖を詠む獅絃の詩は
 天柱巖 在島中屹立三百仭如挂天之状
           天柱の巖島中に在り 屹立三百仭 挂天の状の如し
 湖上巍々勢可憐  湖上巍々(ぎぎ)として 勢 可憐なり
 千尋突兀入雲煙  千尋の突兀(とっこつ) 雲煙に入る
 挂天一柱亦何以  挂天の一柱 亦た何を以ってか
 神秀怪為白日懸  神秀の怪 白日を為して懸る


  書の寰海和尚は備後国高坂村佛通寺百六十九代住職、名を周契、字を處中、寰海は其の号、生まれつき英敏、詩を善くし「寰海詩集」があり広島ョ春水は嘗て其の教えを受けている。常に尾道・三原・竹原間を往来し「健脚にして六、七十里を往くは、隣に往くが如し」と云う。病に臥すこと三年許りにして寂したとき年四十に充たずというが、生死月日等詳らかでない。

 庭園の軒近くに見事な手水鉢がある。材は花崗岩の自然石、重さ約二屯、黒光りする鉢底に二匹の亀が潜んでいるが、餌を与えても身動きはない。そっと後ろから捕まえようとしても持ち上げられない、亀と鉢は一体の造り物であった。鉢をくり貫くときからその配置を考えて加工されており、その緻密さ・着想の意外さに人はみな驚くのである。水の中にたにしが五匹、これも鉢と一体であった。かつて安芸国野呂山にあったらしいこの石を運び出し加工、淺野侯の庭園にあった。広島四代藩主淺野綱長は、竹原照蓮寺に訪遊のとき小祇園を眺め、庭にあった石塔の見事さに感じ入り所望され、替わりにこの手洗鉢を寺に賜ったと伝わる。石塔は五段の上に宝珠を頂き総高さ七尺六寸「右石塔寶永三[1706]年戌八月八日差上」と記録される。石塔は今淺野家旧庭の何処かで健在なのか、あるいは原爆に遭い瓦礫に埋もれてしまったのか不明、手水鉢は残って照蓮寺で三百年の歴史を平成時代の今に伝える。小祇園に纏わる文人達の詩会や菅茶山との歴史は更に後でも述べる。






11.みつ女とョ三兄弟


 この頃みつという名の女が孝行を以て聞こえた。みつは美津或いは密と書いた資料もあるが、九代獅絃は其の孝を人に勧め永く伝えんと念じて天明二[1782]年春三月「勧孝之碑」を境内に建つ。篆額(てんがく)は広島ョ春水、碑文は大阪の片山北海、その書は竹原ョ春風である。この頃春水の手紙に
「照蓮寺へ申遣候先頃来孝女碑之事度々申遣候、一向ニ何とも無沙汰候、もはやヤメにす る了簡ニヤ、又下らぬ事ニ頓着して其沙汰無之哉、畢りに土風之激励無之ヨリ様々の事 も出来候也、何分草々返事有之様ニ申遣度候、
 (安永七[1778]年)四月三日                寛(ョ春水)
 万四郎(ョ杏坪)弟                         」


  あれほど急かしていたみつ碑の話は一向に進展がない、もうヤメにする了見か、といらいらした気持ちが伝わる。

 みつは下市村盛屋与五郎の娘であった。十七歳頃から母は手足が痺れ、人の助けなくては起居思うにまかせず、みつの世話ぶりは人の及ぶところではなかった。多くの人が、みつを娶りたいものと評判しあった。父母は看病を許し嫁に出したいと思っていたけれども、みつはどうしようと悩むうち、父は儚く果てる。親戚に味呑屋長十郎という者があって、みつを嫁にと切望する。母は思い悩み「お前は女と生れたからには家庭を持てよ、そうでなければ母もまた安心ができない」と繰り返し云えば、その心に逆らい難くてみつは遂に嫁となる。一月ばかり経ってある日夫長十郎に「永く暇を賜われ」と云う。夫が驚いてその理由を問うと「私は此の家に不満を持ったことは露ほどもありません、唯病んでいる母のこと片時も忘れることが出来ません、離縁して下さればこれほど有り難いことはありません」と、涙を流し打し萎れるさまに夫も止め難く、それ程ならばと彼女の意にまかせる。みつは元のように母の看病に明け暮れたが、みつの弟の権七もやがて成人となり、家業も出来る頃になった。しかし家にばかり居るわけにはゆかず、みつの苦労は初めと変わりはなかったから、親類の者達は相談をし、権七に妻を取らせみつを助けてはどうかと云う。みつはそれを聞き「母の病に高価な薬を奨めたけれども未だ代金を払えないままでいます。今暫く許して下されば」と云い猶懸命な介護に明け暮れ遂に借金を返済し、厚くその人に恩を感謝する。母への飲食、起居の世話は云うに及ばず、冬は衾を打重ね、夏は涼しい場所に寝床を移し、朝は髪を洗い清め、暮は手足を洗い、そのほか至らぬところはない世話は、これまでの二十八年の間一日も怠ることは無かった。みつの心ばえに人々賞賛せぬ者なしと云う。年寄半平・太左衛門ら、事の次第を詳しく代官梶川助三郎・松原助左衛門に申上げ、享保十四[1729]年、米三石を賜りその孝を表彰された。みつ時に四十四歳であった。母は病ながらもみつの手厚い介護に見守られて長寿を全うし、みつもまた宝暦七[1757]年二月二十三日七十二歳の大往生であった。

 享和元[1801]年十月には広島淺野藩から「芸備孝義伝」が刊行された。七代藩主淺野重晟(しげあきら)が儒臣ョ春水・杏坪兄弟に命じて、明暦三[1657]年から寛政三[1791]年六月までの間の二百二十三人の孝子・順孫・忠僕・節婦を選んで九巻に亘って編集したもので、勿論のことみつも中にあってその孝女ぶりを伝える。




 


12.乕渓(こけい)和尚と菅茶山(かん・ちゃざん)


 この頃照蓮寺に乕渓と云う僧がいた。釋名を僧遵、字を超倫、号を乕渓と云う。安芸国豊田郡小谷村の庄屋渡辺氏の出、性は温和にして謙虚、詩歌も善くし気品あり、多くの人が彼の徳を慕って集まったと伝える。和泉国の僧樸を師とし、仏学・詩文を学びのち播磨国真浄寺住職智暹の門人となった。長崎にも居たことがあり、おそらくここで書の大家趙陶斉(ちょうとうさい)について教えを受けたものであろう。長崎から帰った乕渓は、しばらく安芸国豊田郡入野の順教寺に滞在したことがある。照蓮寺の僧九代獅絃と同じく京都宏山寺に学んだが、九代獅絃・十代片雲の学徳を敬慕し照蓮寺に奇寓し、十年間ここに学んだ。各地の寺から住職となることを求められたけれども好まず、照蓮寺で詩・書・酒の三昧に過ごす。古書籍を蓄え、齢老いても猶手習いを止めず、人と談話するにも常に膝へ指書、その着る物は膝のところが擦れて薄くなっていた。乕渓の人物像に

「人、書を乞い候得者、酔ハされハ書き不申、書を乞う者皆酒を贈り申候、今所々に在る 所之文字、皆酔中之書也」

とある。備後の詩人菅茶山が照蓮寺を訪ねたときの日記には、出迎えた彼のことを「酒僧超倫」と書いた。

 竹原市下野町寳泉寺には乕渓の書七夕(たなばた)を詠んだ古詩軸、山門前には乕渓の書碑「無門関」があり、寳泉寺僧教恩(きょうおん)描く蘇鉄図に賛した乕渓書漢詩の軸物などがある。この寺の参道の石灯籠に「天明八[1788]年」の筆を残しこの時
「斗酒をあびて歩行困難、地をはい歩いて到って字を書き」と伝える。

 彼は片雲和尚に似て平常酒を愛し、中国地方は遊歴せざるところなしと言われるほどであったが、のち山陰に赴き、浜田市国分の金蔵寺に一時住職として居たことがあった。そこに彼が竹原から持参したョ春水の書も屏風にしてあったと伝える。彼は此の金蔵寺で没したとの話もあるが、また一説に老いて癰(はれもの)を患い故郷小谷に帰るが、見舞いの人が絶えなかったとも云う。寛政四[1792]年閏二月二十六日没、六十六歳であった。竹原地方では、妻子もなく生涯定住する寺もなかった放浪の僧乕渓は、何処で永遠の眠りについていることだろうかと伝えられている。

超倫の詩、
 登引接山大悲閣  引接山大悲閣(いんせつざん・だいひかく)に登る
 初地躋攀高閣前  初地 躋攀(さいきょ)して高閣の前
 瑞烟深処礼金仙  瑞烟 深くす処 礼金仙(れいきんせん)
 優曇花発雙林密  優曇花(うどんげ) 雙に発(ひら)き 林 密
 甘露雲懸諸窟連  甘露の雲 諸窟に懸りて連なる
 威力加人空有想  威力 人を加え 空に想い有り 
 毫光破闇照無辺  毫光(ごうこう) 闇を破りて無辺を照らす
 接山元自稀塵事  接山の元(はじめ) 自ら塵事を稀(うす)くし
 迷鳥時来近法筵  迷鳥 時に来たる法筵の近く


  引接山大悲閣とは観光竹原のシンボル、引接山西方寺の普明閣のこと。竹原を訪れる者はみなこの普明閣に登って国指定の古い町並みを望見せざる者なしと云う。

 備後国詩人菅茶山は嘗て竹原に来て照蓮寺に獅絃を訪うたことがある。この時の様子を彼は「遊芸日記」に克明に記す。天明八[1788]年六月二十四日、茶山と門弟士晦は豊田郡三津から東へ旅を続ける。
 「其の東は吉名村為り。登降すること六、七里、左は峻峰、右は江湾、島烟帆影、松林蒼 翠の中に隱見す。亦た勝境なり、且、憩い、且、行き、多井村に至る」。

 多井はのちに大井と名を変えた。大井の斗石(はかりいし)峠を越える。このあたりから山は緩やか、路は平坦であると記す。今に残る「左三津・右宿根・道」と刻んだ石の道標を見て地蔵を拝み、今度の旅の安全を感謝したのであろうか。やがて周囲二粁余天池(あまいけ)のほとりに出ると其処は万治三[1660]年に完成を見た大井新開。「田は新墾多く、新秧鬱茂(しんおう・うつも)たり」と稲の出来栄えに感嘆しながら程なく賀茂川堤に出る。

 「一川を氏iれい)して竹原に抵(いた)る。竹原は井邑雄富なること、尾路(備後尾道 )に亜ぐ可し。江に沿いたる諸郡には、鹽田極めて夥し。人は赤穂(播磨国)第一たり と稱す。而して竹原は恐らく第二に甘んぜず、之を望めば際(きわ)無し」と。

 賀茂川を渡れば竹原は見渡す限り塩田であった。町中となり渡會橋(わたらいばし)を渡り板屋小路・下市の通りに入る。二百余年後平成時代の今、この一帯は国の「伝統的建造物群保存地区」に指定され観光客が絶えないが、この今の賑わいを誰が予見出来たか。彼は下市通りの北、照蓮寺近くの春風館を訪ねる。春風館と、のち隣接して建てられた復古館とは今ともに国の重要文化財。春風館の主春風は広島淺野藩儒者ョ春水の弟、茶山と春風はこの度が始めての対面ではあったが互いに十餘年も前から相知る間柄、心尽くしの酒肴に歓談は深夜にまで及んだ。翌二十五日晴、春風と共に照蓮寺に登る。
「住持(住職九代獅絃)上人及び内人、酒僧超倫(号を乕溪)出でて見ゆ。寺は絶壁を負 い、密樹屋を掩い、池影坐を照らす。池中の赤鯉數十、遊泳して人を畏れず、拍手して 之を喚べば、先を争って来り集まる」。


 庭園小祇園で乕渓がせんべい數枚を池に投げやると、鯉たちが水にうかんだ菓子を争って食べた。犬が一匹、岸辺からその一枚を奪いとり食うが魚は少しも恐れる様子のないのが面白い。何時ものことだからであろう。紙と筆を出して、僧乕渓から詩及び和歌を求められ茶山は詩を賦し、旧咏の和歌二首を短冊に書く。対する乕渓の書いた四大字を見て茶山大いに感嘆したと記す。深夜に至るまで飲み春風館に帰って寝る。

 照蓮寺境内に珍しい石灯籠がある。正門を入ってすぐ左右の二基、中洞は「かんざし」様二つが寄せ合わされて四本足となり、その中心に六角形の心石柱があり「かんざし灯籠」と呼ぶ。驚くのはその高さと礎石の大きさ、「恩に荅(こた)えて登す・鳴呼、大なる哉、雙の石燈、實に千載不朽の盛擧」等の文字は下市村の泰平三郎が寛政十[1798]年寄進したと刻む。




 


13.ョ山陽と平田玉蘊(ぎょくうん)


 文化四[1807]年九月には、ョ山陽は父春水・叔父春風・同杏平、詩人石井豊州、女流画家平田玉蘊・玉葆の姉妹らと竹原に再び遊んだ。ここは訳をやめ、名文「山陽・竹原舟遊記」原文を載せるので読んでその光景を想い描いて欲しい。

 「丁卯(ていぼう・文化四年九月二十六日)の歳、我が三家(ョ春水・春風・杏平の三兄 弟)盡くその郷に聚まる。…遊びに先たつこと二日、玉浦(たまうら・尾道)の女子の 畫を善くする者の玉蘊至る。次日、龍山(照蓮寺)に於いて會す。暁に至りて罷め、舎(春風館)に歸り寝に就く。

 日出でて眠りから覺むれば、則ち儀卿(石井豊州)舟を港に艤して来り促す。衆曰く、 眠り未だ足らざる也。對えて曰く、舟に衾(ふすま)と枕有り。請う、舟にて眠られん ことを。衆曰く、未だ食せざる也。對えて曰く、舟に釜と鬲(かめ)有り。請う、舟に て食せられんことを。衆乃ち往く。獨り仲翁(春風)は玉蘊が将に来りて訣別せんとす るを以って、故に留まりて往かず。…すなわち偕に舟に上る。岸は走るが如く、山は迎 うるが如し。雪州・神峯・阿波・高崎の諸山、層見畳出す。衆應酬して倦むを忘る。已 にして衾(ふすま)を引き枕に就く。波の聲は鼻の息と相和す。

 頃(しばら)くして儀卿、飯(いい)熟せりと喚ばう。余(山陽)目を揩(ぬぐ)いて 起つ。舟内の人、初めより倍せるが如し。淡粧素服(たんしょうそふく)、風神超凡( ふうじんちょうぼん)なる者は玉蘊なり。?(ネ扁に玄)衣?(青扁に見)飾(げんいせ いしょう)、光艶外射(こうえんがいしゃ)する者は、其の妹玉葆なり。二女我が遊び を聞きて、歸る期を延ばすこと一日、仲翁(ちゅうおう)に従いて追い至るなり。衆驩 (よろこ)ぶこと甚し。鮮(せん)を撃ち肥(ひ)を割き?(さかずき)を洗い更に酌む 。日己に午(うま)なり。舟床浦(竹原忠海の海岸)に至る。繋ぎて上る。海山の望甚 だ勝る。或る人曰く、此より勝る者有り。黒瀑山(こくばくさん・忠海背後の山)と曰 う。乃ち徑を田間に取る。東北に行くこと一里許りにして麓に至る。前に曳き後に推す 。魚貫(ぎょかん)の而くに上る。巓(みね)に至りて望む。嚮(さき)の層見畳出す るは碁布の如きなり。家翁(かおう・春水)・仲翁筆を援き圖を作す。延眺久しくして 下る。舟に至れば則ち日己に入る。

 山紫水白、繼ぐに蒼然の色を以ってす。而して漁火出づ。余は舷を扣(たた)き朗?(ろ うぎん)す。迂邨(うそん・僧)和するに横笛を以ってす。…今日の遊び三家を一舟に 載せ、加うるに道冠(どうかん・隠士)・緇流(しる・僧侶)・華麗の人(美女)を以 ってす。其の已に来る者と未だ去らざる者と、日を同じうして聚(あつま)る。これ天 良縁を假す。しからざるや。宜しく記して之を傳うべきのみ。両翁之を然りとす。遊び に後るること一日、玉蘊将に去らんとす。因りて附するに作す所の圖を以ってす。更に 之を畫かしむ」。

 二年前にいた九代獅絃和尚はすでに亡く、今は十代片雲和尚。この時山陽は玉蘊に詩を贈る。恋の芽生えであった。

ョ山陽の詩
 龍山會 玉蘊女子画題牡丹  龍山會 玉蘊女子画く牡丹に題す
 絶塵風骨是仙姫  絶塵の風骨 是れ仙姫(せんき)
 却画名花濃艶姿  却って画く 名花 濃艶の姿を
 應知今夜空門會  應に知るべし 今夜 空門の會
 欲向香龕供一枝  香龕(こうがん)に向いて 一枝を供えんと欲す 
龍山とは、龍頭山照蓮寺のこと。

 二人の恋は悲恋に終った。後年山陽が、親友豊後国田能村竹田(たのむら・ちくでん)との夜話しの中に、「備後小野道邑の女玉蘊(山陽との)姻事諧(いんじ・ととの)わずして終にその郷に帰り、爾後是を耻じて再び京に至らざりき。山陽いう、まことにに憫れむべし、吾れ実に負き了んぬ」と。姻事とは結婚話のこと。

 後世、金沢市に生まれ広島人となった作家池田明子は、女流画人平田玉蘊の生涯に心を引かれる。玉蘊は故郷尾道からもョ一族の故郷竹原からも永い間忘れられていた。その彼女の足跡を丹念に訪ね歩き平成八[1996]年「ョ山陽と平田玉蘊」を書きあげた。原文で載せた「ョ山陽・竹原舟遊記」はこの書の中で情緒豊かに書かれているのでご覧願いたい。以後尾道では毎年「玉蘊忌」が開かれるようになり、また全国に埋もれていた夥しい数の玉蘊画が発見された。池田明子はこの著でョ山陽記念文化賞を受ける。




 


14.片雲和尚とョ春風


 十代恵範(えはん)は備後国芦田郡府中明浄寺了然の子、明和五[1768]年生まれ、弘化四[1847]年没する。天明八[1788]年、明浄寺から入って照蓮寺十代住職となって片雲と号した。彼が照蓮寺に入ったのは、備後神辺の儒者菅茶山の紹介によるものといわれ、茶山の学問の影響を強くうけている。片雲和尚は詩と書に優れ、詩は「片雲詩集」五巻に収められている。これは文化十四[1817]年から天保八[1837]年までの二十年間のみの詩集であり千余首あるから、この年のほか彼の生涯八十年間の未収録分を合わせるならば詠んだ詩は二千余首にものぼるのではあるまいか。乕渓和尚・先代獅絃和尚と並んで安芸竹原の文化の中心にあり、この地方文化水準の高いことを広く世間に示した。照蓮寺の西、朝日山の麓には同じ浄土真宗寶泉寺があって、この頃九代観静(かんじょう)和尚・十代葆真(ほしん)和尚ともに名僧として知られた。

 竹原ョ春風が残した日記には至たるところに片雲の文字が見え、二人は常に花を愛で詩を詠み酒を飲み旅をしている。片雲の詩、

 季春十二日同春風老人淡水盟兄的場見花分韻
          季春十二日 春風老人 淡水盟兄を同ない 的場に花を見て分韻
 山房無主對芳菲  山房に主無く 芳菲(ほうひ) 對え
 漠漠春陰晝掩扇  漠漠たる春陰 掩扇(えんせん)を晝く
 風歇間花飄尚舞  風歇(ふうけつ)の間 花飄(かひょう) 舞うを尚(ねが)い
 不知細雨混蘿衣  知らず 細雨(さざめ) 蘿衣(らい)に混じるを


  的場(まとば)とは竹原の港入り口東側の小高い山、昔からこの山も麓も桜の名所、海岸は海浜公園として賑わう。季春十二日は文政七[1824]年三月十二日のこと。




 


15.本願寺広島別院


 十一代恵應(えおう)は十代片雲の子。文政五[1822]年八月付き本願寺へ宛てた照蓮寺嘆書がある。大意は

 「照蓮寺は慶長以来[1596〜]京都西本願寺の直参御末寺であるから用向・諸願・免諸事は 直接に計らわれ法義相続・門徒教化をして来た。真宗一統に用向がある時だけは、広島 城下佛護寺の触口(ふれぐち)を以って用向を承って来た。ところが文化十四[1817]年佛護寺より本 山の用向と唱え、直参から末寺迄一統を呼出され、一方的に触頭格をなされた。勿論、 新しいやり方であるから一統の寺院は折り合いが出来ない。触頭と触口とは作法大いに 相違していて、触頭になれば、今後の用筋・諸願事も皆、佛護寺が取決められることに なる。前記の通り照蓮寺は従来本山直参であって用触・諸願等皆直に仰付の形であった 、今回の通りになるならば直参の証も無くて甚だ歎かわしく思う。この度のは新しいこ とであり、照蓮寺の寺格も立たず門徒中鬱憤(うっぷん)も強く高まり人気も居り合い難く、門徒教 化も行き届き難く成り甚だ困ったことになった。従来触口にて差支えなく相済んで来た のであるから新規の触頭格の義は聞届け無きよう成されたい。この段宜しく取り上げら れたく書付けをもって願い上げる次第である」
と次の連名で願っている。

「文政五[1822]年八月          賀茂郡竹原町 照蓮寺 十一世恵応
  年寄  半三郎 同治左衛門  庄や   勘兵衛  同五作
  町与頭 友太郎 同市兵衛   地方与頭 平右衛門 同周三郎」

 佛護寺は初め安芸国安芸郡中山村に佛護庵を結ぶ。応仁元[1467]年頃武田氏の安芸銀山城麓に建立し天台宗であったがが、長禄三[1459]年建立とした資料もある。明応五[1496]年、二代目円誓が本山八代蓮如に帰依して、浄土真宗に改めた。毛利元就の中国統一の過程で戦火に逢い焼失と再建を経て、福島正則が広島藩主となった慶長十九[1614]年には広島城西の寺町に移転、明治三十五[1902]年広島別院に昇格。同三十七年別格別院佛護寺に改称、同四十一年本願寺広島別院に改称して今に至る。佛護寺とは照蓮寺十一代恵應のときにも本末縺れが出てくる。この寺は初め天台宗であるとするも時宗であったとする資料もある。

 弘化二[1845]年頃には十一代恵應は広島淺野藩役附に連なる。賀茂郡代官直支配座順によれば僧侶・神官・医師などの知識人から選ばれた十二人目に「竹原下市照蓮寺恵応」の名がある。代官直支配とは、民生などに年寄役や各支配役を介さず直接代官に意見具申を許された身分で、役人などと会席の時は十二番目の席を与えるというものであった。

 文久元[1861]年、安芸地方は大凶作であった。下市村でも餓死者が出るほどになり、合わせてコレラが数年前から全国的に流行していた。コレラは安政五[1858]年頃九州から流行の兆しが現れ、この年の凶作が加わり、文久二[1862]年三月の凶作とコレラの記録によれば、
「極難者・凡そ三百六拾六人、十二月廿日より翌四月廿六日迄一人ニ付一日白米一合宛支  給。中難者・凡そ六百拾六人、前項に同じ期間一人ニ付一日白米二合宛石当り四拾目安 く売り渡す」 
と触れている。この時の死者は、コレラによると診断された者が、

「流行病ニて死者之人数書上、文久二[1862]年六月より八月迄

長生寺 壱人      
西方寺 拾五人 九人 六人
照蓮寺 百丗三人 七十七人 五十六人
長建寺 五拾五人 三十二人 二十三人
宝泉寺 五十九人 三十二人 廿七人
浄念寺 十二人 五人 七人

であった。




 


16.中国の鐘


 本堂南角の喚鐘は中国からのものと云う。中国清朝末期のころ、明治三十三[1900]年北清事変又の名を義和団事件と云うものが発生した。清国義和団の排外運動が盛んで首都北京の外国公使館区域が包囲攻撃され、列国八カ国連合軍が公使らを救出したが、日本も含む各国との間で色々な事件が発生していた。同三十四年に事件は解決したがこの前後ころ清国内の治安は不安定で、住民運動の中では寺の鐘など器物も盗まれることもあったようだ。やがてこれらの物品は資金獲得のため海外へ流出するものがあって、今照蓮寺にあるこの喚鐘は貿易品として日本に渡ったものの一つであると伝える。

 鐘の面には「和泉屋村上惣右衛門・綿屋正木平兵衛。住持僧覺先従海潤・旺淳・道澄。明治三十五年十一月吉日」のほか「皇帝萬歳萬萬歳」など日本が軍国主義にまっしぐらの時代を思わせる文字が陰刻されている。中国の鐘は数個が同じ運命を辿って国内には持ち込まれたと看られ、竹原市下野町大井の寶泉寺の喚鐘もこの兄弟鐘であるが此方の鐘には刻がない。




 


17.唐島基智三とハチス会


 十四代清綱の大正から昭和の始めにかけて、照蓮寺を根拠にしての文化人のグループがあった。ハチス社と云う。「ハチス」とは仏教用語で「蓮の花」の意、即ち寺の号照蓮寺の意味ももつ。
  ハチス社に集まった者達は同人誌「ハチス」を発行していた。ハチス会員の多くは若い人でその肩書きらしきものを拾えば、学生・令嬢・画家・自営業・教員・主婦・会社員・各寺の住職ら百余名、住所は竹原・東京・大阪・神奈川・三重・神戸・岡山・松山・別府・鹿児島・県内各地に及んでいる。竹原を故郷とし、将来、竹原のいや日本の政治・経済・文化の面で活躍するであろう士がここで熱く文化を論じ育っていた。

 ハチス会員に東京市本郷区金助町の学生唐島基智三と云う青年がいた。基智三は明治三十九[1906]年竹原に生まれ第六高校―東京大学と進み、後には国民新聞社記者を振り出しに同社編集局長、東京新聞社論説委員長、その間何度も辞表を提出したという暴れん坊、国民新聞でも東京新聞でもともに数回辞表を書いた気がすると述懐している。戦後公職追放の身となったが、重役を経、政治評論家に独立してからは、NHK党首討論会の名司会者としてその名を天下に轟かせた。嘗てNHKが誰を司会者に選ぶかで揉めたとき、与党党首が揃って「唐島さんなら」と推薦して決まったという話が残る。彼は後年著書「浪人生活を語る」に、「級長をしていた小学校五年生のとき、『将来何になりたいか』という作文を書かされた時、『おしゃべりをして飯を食いたい』と書いた。照蓮寺の日曜学校に通っていたころ降誕祭だとか、お盆だとかには、何処からか説教師が招かれてくる。説教師は庫裏の一番立派な部屋に陣取って、三度が三度、二の膳付きでサービスされ、菓子や果物も座右にもりもりと盛ってあった。子供心に『ああ、いいなあ』と思ったからだ。」と述べている。唐島家は今の竹原市内、本町楠通りにあったが、基智三は遊んで帰るのが午後十一時頃、それから何時も夜半過ぎまで明かりが漏れていたという。

 彼はハチス同人誌に随想で「御聴聞」と題した便りを寄せたことがある。
「(大正十五[1926]年)四月某日、夜七時頃。照蓮寺裏門前、下手に石段が見ゆ。その  下に古風な井戸。書割り・本堂・庫裏の屋根を見せ、境内に大銀杏あり。
 お説教はあることは承知でお寺へ行き、而かも聞かずに帰ろうと云う不心得者なのが  一人。遊びたいさかりでのらくらめ数珠を持たぬ。裏門をくぐって出る。月明かり、  石段の中程でお婆さんに會う。もう佛に近い。お同行熱心に御聴聞と見える。誠にき  どくなことです。


『おついでに私の分も』とふりむく。
『おや、烏か。それとも五位鷺か』。いゝや僻目じゃ。婆殿、石段の上から、崖になっ  ている直下へむけて御用たしの最中。頭は高い、足は細い、烏とも五位鷺とも見えも  しょう。何にしても危ない藝當で。

『それお婆さん、数珠が落ちる』。なむあみだなむあみだ、のらくらめが轉ばぬように  祈って進ぜる。月は明るい、安心さっしゃれ」

石段下の「古風な井戸」とは昔から酒造りの水として、朝早くから夕遅くまで杜氏たちの声で賑わっていた井戸のこと、六角形の石組枠には「癸亥(きがい)天和三[1683]年十二月」が刻んである。危ない芸当の崖下を覗けば高さは三米もあった。




18.徳富蘇峰(とくとみそほう)と竹原


 昭和六[1931]年十月、ョ山陽没百年祭が広島市や竹原町で開かれた。この年「ョ山陽全書」八巻は徳富蘇峰の監修を得て発刊される。広島市での記念講演に臨んだ蘇峰は、竹原に於ける遺跡を探るため山陽本線賀茂郡西条駅を経由竹原に来た。荘野村の小早川神社、竹原の礒之宮の忠孝碑、竹原小学校内の郷賢祠に詣で、長生寺に上り唐崎赤斎・河野道直の墓、普明閣で竹原全町を一眸、ョ邸の春風館に入り、長時間に亘って山陽の遺墨・遺品を見た。更に照蓮寺に至りョ家の墓に詣で澹寧居に落ち着く。昼食に出された瀬戸内の新鮮なる魚刺身に頬を落としたと感激している。

 徳富蘇峰は明治から昭和にわたる代表的言論人・歴史家で本名は猪一郎。肥後国水俣の郷士の家に生まれた。著書は数百冊に及ぶが、なかでも「近世日本国民史」は、全百四巻二千六百万字に及ぶ大著として名高い。戦後要職を退いたが、第一回文化勲章を受賞する。昭和三[1928]年蘇峰が国民新聞社の社長であったころ、竹原出身の東大出秀才が入社する。唐島基智三であった。皮肉にも蘇峰・基智三はともに昭和の戦後は公職追放の身となった。

 その昔、文政元[1818]年ョ山陽は父春水の三回忌法要を済ませたあと九州の旅に出た。九月熊本では加藤清正の「浄池廟」に詣でその忠魂を弔って「謁加藤公廟」詩を賦した後、南に向かい水俣では徳富家に泊ったことがある。
蘇峰とはこのような縁があって後年竹原礒宮忠孝碑側の唐崎常陸介赤齋を称える碑文を草する。

「芸陽竹原の郷に赤齋唐崎先生あり。嗚呼、此れ何を以て称する。…
  昭和二十[1945]年十一月十八日      火國 菅原正敬撰
                     播州 上田容熈書      」
火國とは九州肥後国のこと、菅原正敬とは徳富蘇峰の筆名であった。

 唐崎赤齋は元文二[1737]年竹原に生れ、幼くして安芸竹原礒宮神社の神官となる。上野国高山彦九郎と共に尊王斥覇(そんのう・せきは)の説を唱へ、又全国に遊説していた。赤齋は志の成り難きを歎き、遂に自ら死を決し寛政八[1796]年竹原長生寺境内で割腹自殺、時に六十歳、嘗て宋国文天祥(ぶんてんしょう)の筆になる忠孝の二大字を礒宮千引岩に刻んだ。




 


19.梵鐘(ぼんしょう)受難


 昭和十二[1937]年七月七日、日華事変が勃発、政府は「国家総動員法」を制定、必要物資の使用・収用などを規制した。昭和十六[1941]年十二月八日には日本軍によるハワイ真珠湾奇襲があって太平洋域は全面戦争となって行った。戦局日本側に愈々厳しく、昭和十八年秋になって金属製の仏具を供出せよとの国の命令が来る。照蓮寺でも梵鐘・香炉・吊り灯籠など仏具の殆どを供出した。寺の象徴とも云える鐘が存在しなくなることは門徒達にとって堪え難いことであったが、大きな時のうねりには抗し得ない。八世慈雲が鑄て二百年の歴史を見つめた鐘とは永遠の別れとなった。鐘には次の通り銘があったと記録にある。

 暢々聲其遠 殷々響維洪  暢々たる聲 其れ遠く 殷々たる響 維れ洪いなり
 檀門清浄施 投入薩云中  檀門 施しを清浄にし 投入して云中を薩う
 天人倶讃護 神鬼更尊崇  天人 倶に讃護し 神鬼 更に尊崇す
 昔日空蝉境 今時妙相宮  昔日は空蝉の境 今時は妙相の宮
 動静益何異 津梁萬古通  動静 益々何んぞ異なる 津梁 萬古に通ず
 有聲帰無聲 至韻及無窮  聲有れど 帰するは無聲 至りて韻 無窮に及ぶ

 昨日まで「殷々たる響」の梵鐘は牛車に曳かせた車に載せられ、十四代清綱を初め当時の世話役大澤靖夫・小川常次郎・木村亮平・土居隆正ら多くの門徒が表参道で見送った。将来日本がどうなるのか、庶民には軍部大本営発表しか聞こえない時代のことであった。この頃門下の参道には大きな松並木があったがやがて松根油を取るために切り倒されている。小資源国日本にとっては太平洋戦争の燃料に寺の松一本と雖も貴重な資源の時代であった。

 俗謡に「芸州竹原照蓮寺の鐘は三里聞こえて四里ひびく」とうたわれ、鐘は人々に親しまれてきたが昭和十八年秋供出により照蓮寺から姿を消した。そして終戦となっていち早く門徒代表らによって、梵鐘再建が計画され、昭和二十一[1946]年、梵鐘が山門に吊るされた。三井金属日比製煉所に供出されたままごろごろと保管されてい、まだ鋳直されていない鐘が多くあることを知り、見目良いものを吊るしては撞いて音色を調べ選んだ。早い者が勝ちとなって鐘は幔幕を張りめぐらせた船で竹原内港まで帰り、そこから牛車で照蓮寺に持ち帰った。凱旋屋三永健量らが船の上で太鼓をたたいて、にぎやかに入船を祝ったという。この梵鐘の刻字は到底解読し得ないが、微かに残る文字から想像を逞しくするならば、越前あたりの寺の、鑄年は慶安二[1649]年頃、寄進は豪商や奥州・松前あたりの北前船持ち主らであろうか。




 


20.平成時代の照蓮寺


 第十六世清尚は昭和三十[1955]年、照蓮寺に生まれ平成元[1999]年九月二十九日照蓮寺十六代住職となる。第十六世住職継職法要として、平成二年から五年にかけて本堂内陣・経堂・鐘楼門・大手・仏具などを大修理した。平成十五年十月には浄土真宗四百年を記念して、「安芸竹原照蓮寺」誌が発行され、また十月十九日には稚児行列が賑やかに行われた。

 照蓮寺が曹洞宗から浄土真宗となったのは慶長八[1603]年初代浄喜のときであった。以来平成十五[2003]年で四百年の星霜を経る。

 幾世紀かのちこの照蓮寺はどのような姿であろうか。今の姿を少し書き遺しておこう。

 アスファルト舗装の表参道左には消火用水の溜池があって、鯉数匹が時々顔を覗かせて泳ぐ。石段は幅六.六米、三十二段、年老いた善男・善女のお参りに優しく手すりがある。登れば桜が左に二本、右に一本あって鐘楼を兼ねた門が聳える。左には海棠の木二本もあった。門には金文字の扁額「龍頭山」が耀く。梵鐘を撞くのは地上に垂らした綱によるが、年老いた者にでも撞けるようにと安全を考慮してのことであろう。

 境内に入るとすぐ簪燈籠が左右、正に聳えるという形容がふさわしい。境内左手から本堂に向って桜二本と松、本堂前に石灯籠と用水鉢がそれぞれ一対宛て、右にゆけば紅梅・松・枝垂れ桜が続く。本願寺二十四代即如門主が植えられたという紅梅は毎年可憐な花を咲かせ、前に親鸞聖人像が立つ。庫裏玄関の対面の間には国重要文化財指定の「朝鮮鐘」が据えられ、観光客は此処で記念のスタンプを押す。

 玄関前の大銀杏は幹回りが四米、根廻り付近は既に皮が剥がれ幹は洞になりかけているから照蓮寺の歴史四百年を見守って来た樹であろうか。本堂には金文字の扁額「照蓮寺」が懸かる。本堂から庫裏へは長廊下で結ぶ。本堂の左には離れて経堂があり、ここにも金文字の扁額「轉法輪蔵」がある。

 本堂と庫裏を結ぶ渡り廊下を潜って内庭小祇園に入る。大きな池のやや奥よりに巨岩を組んで出来た島が浮かぶ。昔、獅絃和尚は、島に聳える岩を「天柱の巖 島中に在り屹立三百仭」と詠った。周辺の岸辺には春から順次躑躅・皐月・菖蒲(つつじ・さつき・しょうぶ)が咲き競い、秋には紅葉が映える。年中変わらず青いのは手前の苔と奥の蘇鉄(そてつ)群。

 境内の中央、門から本堂へ真っ直ぐ石畳の参道があり右に洗心堂、古い井戸には釣瓶は無く側に水道の蛇口三個、墓参の人は此処で備え付けのブリキ桶に水を貰い受ける。今日も花を抱えた墓参りの善女が三々五々。子犬が二、三匹境内の砂地に寝そべっていたが、参詣者が近づけば可愛い声で吠える。坊守の姿をみれば尻尾を振って近づくから何時も可愛がって貰う人は確り心得ているものと見える。国が指定した「伝統的建造物群保存地区」の一画をなす此処は今日も散策する観光客が絶えない。ボランテアガイドに案内されて団体客の一群が来た。
                おわり           (敬称略)


 なお「安芸竹原照蓮寺」についてもっと詳しく知りたいときは次の図書館の郷土史コーナーで閲読出来ます。
広島県立図書館・市立竹原書院図書館・呉市中央図書館・広島市中央図書館・はつかいち市民図書館・府中市立図書館・福山市民図書館・尾道市立図書館・三原市立図書館・因島市立図書館・東広島市立図書館・三次市立図書館・庄原田園文化センター・安芸津町立図書館・竹原市かんの蕎麦処。


 


 

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